貧乏、貧乏、超ど貧乏——それでも日本は豊かですか
日本は豊かな国だと言われてきた。
けれど、私はそうは思わない。
私は介護士として働いている。
その中でも夜勤専従なので、一般的な介護現場の中では、まだまともな方の給料だと思う。
それでも安い。
本職だけでは大学の授業料まで払えない。
だから、非常勤でも働いている。
介護の仕事をして、夜勤をして、さらに別の仕事をして、ようやく生活と学費が成り立っている。
別に贅沢をしたいわけではない。
大学へ通い、社会福祉士と精神保健福祉士を目指しているだけだ。
働きながら学んで、少しでも将来の選択肢を増やしたいと思っている。
それでも、一つの仕事だけでは足りない。
私は介護や障碍者支援の現場にいる。
だから、貧困はニュースの中だけの話ではない。
フードバンクを利用している家庭。
ひとり親家庭。
生活保護を利用している人。
障碍があり、働き方や収入に制限がある人。
そういう人たちは、私の身近にいる。
普通に話している。
普通に笑っている。
買い物にも行くし、ときには少し遠くへ出かけることもある。
外から見れば、困っているようには見えないかもしれない。
けれど実際には、食費が足りない。
支払いの順番を考えなければならない。
何か一つ壊れただけで、生活の予定が大きく狂う。
貧困というのは、何も持っていない状態だけではない。
生活しているように見えても、余裕がない。
働いていても足りない。
少しの出費で、簡単に崩れる。
私自身も、非常勤の仕事がなくなれば、普通に貧乏になる。
支援する側と、支援される側が、まったく別の世界にいるわけではない。
支援する側もまた、安い給料で働き、足りない分を副業で補いながら、誰かの生活を支えている。
私の両親は80代だ。
二人とも年金で暮らしているが、決して余裕はない。
食費、光熱費、病院代、薬代、家の修繕費。
年齢を重ねるほど必要なお金は増えるのに、収入はほぼ変わらない。
自宅で暮らすのが難しくなれば、施設に入ることも考えなければならない。
けれど、施設に入れば、さらにお金がかかる。
家で暮らすのも厳しい。
施設へ入るのも高い。
高齢者になれば、年金で安心して暮らせる。
そんな時代でもない。
今の日本では、一人分の給料で、一人の生活を成り立たせることさえ簡単ではない。
ましてや、ひとり親家庭なら、一人で稼ぎ、家事をし、子どもを育て、学校や行政にも対応しなければならない。
時間を確保すれば収入が減り、収入を増やそうとすれば子どもと過ごす時間が減る。
配偶者がいて、二人分の収入を合わせて、家事や育児を分担して、ようやく家庭が成り立つ。
そんな構造になっている。
それなのに社会は、余裕のない市民へ、さらに優しさを求める。
地域で支え合いましょう。
ボランティアをしましょう。
高齢者を地域で見守りましょう。
子ども食堂を地域の善意で支えましょう。
けれど、その「地域」や「市民」に、本当に余裕はあるのだろうか。
生活に追われている人へ、さらに無償の善意を求める。
福祉職には、やりがいや使命感を理由に安く働かせる。
制度が負担するべき部分を、家族や地域へ押し戻す。
日本は、ボランティアや優しさを安売りしすぎていると思う。
ボランティアは、本来、時間やお金に余裕のある人が、自分の意思で行うものだ。
生活が苦しい人にまで、社会貢献を求める必要はない。
富裕層や大企業、政治家こそ、もっとお金も時間も出せばいい。
一般市民は、まず自分と家族の生活を守るだけで精一杯だ。
そもそも、日本は本当に豊かな国なのだろうか。
「日本は豊かになった」という感覚は、高度経済成長期が見せた過去の産物なのではないかと思う。
戦後の貧しい時代と高度経済成長期を比較すれば、生活は確かに豊かになった。
給料が上がり、家電が増え、車や持ち家を持ち、貯金にも利息が付いた。
昨日より今日、今日より明日の方が暮らしはよくなる。
その感覚を持った世代の幸福意識が、今も日本社会に根付いている。
けれど、バブルを経験していない私たちの世代には、その実感がない。
給料はなかなか上がらない。
税金や社会保険料は重い。
貯金をしても、長い間ほとんど利息は付かなかった。
学費も老後資金も、自分で用意しろと言われる。
働いても余裕が残らないのに、将来への責任だけは個人へ押しつけられる。
過去に豊かになった国と、今そこに暮らしている人が豊かであることは、同じではない。
私にとって、日本は豊かな国ではない。
介護士として働き、非常勤をしなければ大学の授業料を払えない。
80代の両親も、年金だけではカツカツだ。
身近には、フードバンクを利用する人、ひとり親家庭、生活保護を利用する人、障碍によって働き方を制限される人がいる。
私は現場で、それを見ている。
そして私自身も、その社会の中にいる。
日本人は、優しさが足りないのではない。
優しくできるだけの余裕を、持てなくなっている。
日本は、豊かな国ではない。
豊かだった時代の記憶だけが、今も日本を豊かそうに見せている。
支える側まで、貧乏でいいのか
大学で社会福祉を学ぶようになって、もう一つ強く思うようになったことがある。
それは、社会福祉士の仕事に対して、給料が安すぎるということだ。
社会福祉士は、ただ相談を聞く人ではない。
生活保護、障害福祉、介護保険、成年後見、虐待、医療、家族関係、就労、住居、行政手続き。
一人の生活に関わる問題を、制度や法律を横断しながら見ていく。
どの制度が使えるのか。
どこで権利侵害が起きているのか。
誰と連携し、どこへつなぐのか。
本人の意思をどう守るのか。
勉強すればするほど、社会福祉士は、ある意味で「福祉分野の弁護士」に近いと思う。
もちろん、弁護士のように訴訟代理をしたり、法的交渉を行ったりするわけではない。
けれど、支援する相手は、まさに権利擁護を必要としている人たちだ。
お金がない。
障碍がある。
高齢である。
家族との関係が壊れている。
制度を知らない。
自分では行政や事業者と交渉できない。
そういう人たちの生活と権利を、制度の中で守ろうとする。
弁護士は、一つの事件について法的に深く関わる専門職だ。
一方で社会福祉士は、法律だけではなく、医療、福祉、心理、家族、地域、就労、住居まで、生活全体を横断して考える。
集中的ではない代わりに、非常に広い。
それなのに、報酬は驚くほど低い。
理由は単純で、支援を必要とする人ほど、その専門職へ高い報酬を払えないからだ。
弁護士には、相談料、着手金、成功報酬がある。
企業法務や高額訴訟では、大きなお金が動く。
もちろん、法テラスを通して困窮者を支える弁護士もいる。
すべての弁護士が高収入というわけでもない。
それでも、弁護士の専門性は「料金」として可視化されやすい。
社会福祉士の専門性は、そうではない。
虐待を防いだ。
孤立を防いだ。
生活が破綻する前に制度へつないだ。
家族が崩壊する前に調整した。
入院や施設入所を避けられた。
そういう成果は、「何も起きなかった」という形で現れる。
売上にはならない。
成功報酬にもならない。
だから、社会にとって重要な仕事であるほど、その価値が見えにくくなる。
そして足りない部分は、やりがい、使命感、優しさで埋められる。
専門性を求める。
責任も負わせる。
けれど給料は上げない。
それでは、優しさの搾取でしかない。
社会福祉士は、法律と制度を使って生活を守る専門職だ。
それなら、もっと高い給料が支払われていい。
少なくとも、生活に困っている人を支える専門職自身が、副業をしなければ生活や学費を賄えないような社会は、おかしいと思う。


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